なっとぅの黒歴史製造ブログ

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日系人のふりをして収容所に入ったアメリカ人

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参考資料

globe.asahi.com

 

どうも!今回のブログですが、第二次世界大戦中にアメリカでは日系人が収容されていたのでうが、その中で日系人のふりをしてマンザナール日系人強制収容所に入ったアメリカ人がいたのです。というわけで今回は日系人のふりをして日系人収容所に忍び込んだアメリカ人について触れていきたいと思います!

 

 

 1.詳細

太平洋戦争が開始されて、ルーズベルト反日感情によって日系人が収容される羽目になったのですが、その時に一人のアメリカ人が日系人のふりをして収容所に入ったアメリカ人がいました。その人の名は、「ラルフ・ラソ」と言い、メキシコ系アメリカ人です。

 

彼は1924年11月3日にロサンゼルスに生まれ、リトル・トーキョーの近くで育ったが、母とは幼くして死別をし、塗装業者の父の手によって育てられた。市中心部のベルモント高校に進学をしたのだが、多様な人種がいる中で最も親しかった友人の中で日系人たちがいました。ロサンゼルス・タイムズ紙でも彼は「とても気が合い、素晴らしい友人関係を培うことができた。」と述べている。真珠湾攻撃を受けてから日系人アメリカ人から背を向けられたり、罵られたり暴力を振るわれたりするようになっても、彼は日系人との関係は続いた。

 

1942年の春、当時17歳の彼は、列車に乗ってマンザナール日系人強制収容所に共に向かいました。「高校の日系人の友人たちは、家から立ち退くように命じられていた。だから、一緒にいくことにしたんだ。」と1944年のロサンゼルス・タイムズ紙に述べている。

 

彼はサマーキャンプに向かうような感覚で父に「ちょっとキャンプに行ってくる」と伝え、父は特に追求もされなかった。ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ラルフさんは「自分のことを理解してくれていたので、日系人に寄り添っていたことが判明して、むしろ喜んでくれたのではないか」と述べていました。

 

彼は2年半に渡って、自由の身を奪われてしまい日系人と同じ扱いをされる羽目になってしまったのです。その後の1944年8月に兵役に就き、太平洋戦線に従軍し、1946年に除隊した。

 

それから彼は社会性に目覚めるようになり、日系人に味わっていた屈辱に対して怒りが膨らんでいた。それはその後、社会的弱者により多くの教育を受けさせ、収容された日系人への補償を求める活動に取り組むようになった。1988年に「市民の自由法」が制定さて、日系人に対しての謝罪もされ、見事実りました。

 

 

2.感想

当時のアメリカを考えたら日本人や日系人に対して差別的というか反日感情が高まっている印象があったので、敵ばかりだと思っていたのでこのような出来事があったのはびっくりでした。

 

日本でさえ、アメリカ人を「鬼畜米英」とみなしており、見かけたら差別的・反米的感情が高まっていたはずです。そんな状況の中、ラルフさんは日系人の優しさやどんだけいい人なのかというのがわかっていたからこそ、日系人に対してとても優しかったんだなぁと感じました。どんな世界情勢であっても、人を簡単に見かけに判断してはいけないんだなと思いました。

 

 

とても優しいラルフ・ラソさんに感謝です!

 

 

ではここまで読んでいただきありがとうございます!